沖縄の歴史と風土の中で培われた「平和のこころ」を広く内外にのべ伝え、世界の恒久平和を願い、国籍や軍人、民間人の区別なく、沖縄戦などで亡くなられたすべての人々の氏名を刻んだ記念碑「平和の礎」を、太平洋戦争・沖縄戦終結50周年を記念して1995年6月23日に建設する。
平和の火がある平和の広場は、断崖絶壁から海岸線、波打ち際を眺望できる位置に設置されています。
広場の中央には「平和の火」が灯されています。この「平和の火」は、沖縄戦最初の上陸地である座間味村阿嘉島において採取した火と被爆地広島市の「平和の灯」及び長崎市の「誓いの火」から分けていただいた火を合火し、1991年から灯し続けた火を、1995年6月23日の「慰霊の日」にここに移し、灯したものです。
1)「平和の礎」は、太平洋戦争・沖縄戦終結50周年記念事業の一環として、国籍を問わず、また、軍人、民間人の別なく、全
ての戦没者の氏名を刻んで、永久に残すため、平成7年(1995年)6月に建設したものです。
その趣旨は、沖縄戦などでなくなられた全ての戦没者を追悼し、恒久平和の希求と悲惨な戦争の教訓を正しく継承するとと
もに、平和学習の拠点とするためです。
なお、「礎(いしじ)」とは、建物などの基礎の「いしずえ」を沖縄の方言で「いしじ」と発音することに由来するもので
す。平和創造の「いしずえ」となることを期待して付けられたものです。
2)「平和の礎」のデザインコンセプトは、“平和の波永遠なれ(Everlasting waves of peace)”となっておりまして、屏風状に並
んだ刻銘碑は世界に向けて平和の波が広がるようにとの願いをデザイン化したものです。
3)平和祈念公園から平和の広場に通ずるメイン通路は、その中心線が6月23日の日の出の方位に合わせて設置されています。6
月23日は沖縄での組織的戦闘の終結した日で、沖縄県では「慰霊の日」と定め、県民の休日となっております。慰霊の日に
は、平和祈念公園で全沖縄戦没者追悼式が開催されます。
4)メイン通路の奥には平和の広場があり、中央には「平和の火」が設置されています。この「平和の火」は、世界の恒久平和
を願い、沖縄戦で米軍が最初に上陸した沖縄県座間味村の阿嘉島で採取した火と、広島市の「平和の灯(ともしび)」、長崎
市の「誓いの火」から分けていただいた火を合わせ、平成7年1995年6月23日の「平和の礎」除幕式典において、ここに点した
ものです。
種火は、平和の広場の地下に大事に保存しております。
5)「平和の礎」には、沖縄戦で亡くなられた、一人ひとりのお名前が刻まれております。
ただし、沖縄県出身者については、昭和6年(1931年)の満州事変に始まる15年戦争の期間中に、県内外で戦争が原因で亡く
なられた方々が刻銘されております。
刻銘の方法は、それぞれの母国語で表記しており、国別、都道府県別となっております。
6)刻銘ゾーンは、平和の広場に向かってメイン通路の左側が沖縄出身者、右側が他の都道府県出身者、右手のサブ園路の奥側
が外国出身者の刻銘ゾーンとなっております。
沖縄県については、戦没者の数が多いことから、市町村別、字別に刻銘しております。
また、県内出身者は、名前がわからない場合でも刻銘されております。これは、戦後50~60年という長い期間が経過したた
めに名前が判明しないこと、沖縄戦で戸籍簿が全て消失したことが大きな原因となっています。
下の例のように刻銘したのは、名前の分かっている方との続柄などを表示することで、名前は分からずともその方々が生き
ておられた証となると考えたからであります。
刻銘碑は、平和の広場を中心にして放射状に円弧の形で広がりをもって配置されています。
これらは屏風状に並び、5つ折タイプ69基、3つ折タイプ49基の合わせて118基、刻銘版は、1,220面に及び、約25万名の刻銘が可能です。
メイン園路は、その中心線が6月23日の「慰霊の日」における日の出の方位に合わせて設定されています。
沖縄平和祈念資料館での朝食です。時刻は午前10時半です。ここまで、沖縄の名産を楽しむために空腹でここまで来ました。
それで、平和祈念公園内にあるいくつかある軽食堂の一つによることにしました。それは韓国人慰霊塔横にある平田パーラという店で、沖縄そばがお得な価格だそうです。
左の写真は、注文した沖縄そばですが、美味でした。
食後は、その店を出てエントランス広場まで行き、そこから、式広場とその奥にある平和の丘を眺めました。