碑の由来について
碑文の建立に当たっては、戦没者の故郷宮城県阿武隈川のほとりから、石を選び、「宮城の塔」と名付けて石へ刻み、戦没者の追悼の誠を捧げるに、世界の恒久平和を祈念したものです。
碑の建立の趣旨
いま、わが国は、経済的にも文化的にも世界に類例のないほどの発展を遂げ、われわれ国民は平和と繁栄を享受し、大きな希望をもって限りない前進をつづけています。しかしながらこの平和のかげにはなにものにもかえられない尊い一命を捧げられた幾多の同胞のあることを忘れることができません。とりわけさきの大戦に従軍し、北辺の広野に、南海の孤島に、あるいは空に、海に勇戦奮闘し、惜しくも散華された勇士は、全国で300万人、本県の戦没者は、約45,500人の多きにおよび、その多くは、望郷の念にかられながらも、いまなお戦場となった異国の地に眠りつづけておられるのであります。ここにおいて10余年前から「それぞれの戦場での弔魂は不可能であるがせめて戦没者同様海を渡り、特にわが本土を戦場から救った、今次大戦最後の決戦場沖縄本島に戦没者の慰霊塔を建立したら」という声が盛り上り数年来沖縄への渡航者の増加とともにその要望が高まりましたので、沖縄本島「摩文仁の丘」に180万県民の心から感謝と平和の願いをこめて慰霊塔「宮城之塔」を建立することに決定したのであります。
塔のデザインについて
塔上段に平和を象徴する球体を配し、正面には「火の国の塔」の題字を刻んでいます。また、題字の下に安永蕗子(ふきこ)の弔歌(ちょうか)「花きよき列島まもり逝きたりと嘆けば炎ゆる緋の仏桑華」が刻まれし、塔の両側面には熊本県出身の英霊2009柱の氏名が焼き込まれている。
建立の経緯
日本放送協会は昭和17年1月、首里市観音堂に放送局を開設し同年3月から放送を始めたが、昭和20年、戦火のためにすべての施設が崩壊し職員30人余りのうち8人が死亡した。戦後、戦没職員の冥福を祈り慰霊碑を建立した。終戦50年を記念し、平成7年2月、全面改修した。
建立の経緯
福島県民の総意を基礎とした期成同盟会を結成し、広く県民各層からの協賛と浄財をあおぎ、ここ大戦最後の激戦地「摩文仁の丘」に英霊へのつきない敬慕と世界平和の永遠の願いをこめて、この「ふくしまの塔」を建設した。
塔のデザインに関して
春山建築設計事務所長 春山新三氏が、福島県戦没者沖縄慰霊塔建設期成同盟会から慰霊塔の設計デザイン試案提出の依頼を受けた。
春山氏は、冥福・合掌・祈り、更に平和への願い等々、各様の具現像の追求スケッチを試み、沖縄摩文仁の丘の地も踏んだ。
その試案の中で、県の中央に聳え、親しまれている磐梯山を象徴した形態の塔こそ、沖縄の地に建立して英霊をお呼びお慰めするのにふさわしいものと採用した。
碑 文
この塔は、第二次世界大戦において祖国の隆昌と民族の安寧を念じて戦いに加わり惜しくも海外において尊いいのちを散華(さんげ)された、福島県民出身戦没者66000余り柱の英魂を合祭したものであります。われわれは、その勇姿をしのび祖国に殉じた誠をとこしえにたたえ、そのご冥福を祈るため、ふるさとの清石を運び慰霊の塔とし、八方には異教の戦場をしのぶ遥拝所を配したものであります。この建立にあたっては、福島県民の総意を基礎とした期成同盟会を結成し、広く県民各層からの協賛と浄財をあおぎ、ここ大戦最終の激戦地「摩文仁の丘」に、英霊のつきない敬慕と世界の永久の平和の願いをこめてこの「ふくしまの塔」を建設したものであります。
同郷66000余の霊よ、いつまでも、そしてやすらかにしずまりますことを祈ります。
建立の経緯
終戦二〇周年記念事業の一つとして今次大戦終焉の地、沖縄において祖国のため散華された大阪府関係戦没者を追悼するため、大阪、沖縄戦没者慰霊塔「なにわの塔」を沖縄の最南端摩文仁に昭和四〇年四月二六日建立した。
昭和四四年、「なにわの塔」建立五周年にあたり、南方諸地域戦没者を新たに合祀し、あわせて当施設を整備するため、奉安所、休憩所、周囲の石積工事等が昭和四四年四月から進められ同年六月二四日完成した。
昭和六〇年、終戦四〇周年を記念して施設内の整備工事並びに常夜燈を設置した。
平成四年、外壁の改修工事及び休憩所敷地のタイル敷き工事を実施した。
平成六年、「なにわの塔」建立三〇周年にあたり、塔本体基礎部分、休憩所、奉安所、正面階段等の大改修工事並びにスロープの設置工事を実施した。
碑 文
太平洋戦争最後の激戦地たるこの沖縄に勇戦力闘して、悲壮の戦死を遂げられた大阪府出身の英霊二千四百有余柱。ねがわくは奇蹟的復興を遂げえた郷土の現状をみそなわせ。これひとえに最期まで祈り続けられた諸霊が在天御加護の賜にほかならない。
思えば個人の生命は短く、民族の歴史は永い。
終戦二十年に当り最も犠牲の多かりし摩文仁の丘に「なにわの塔」を建立して恭しく諸霊の御遺徳を顕彰し、あわせて人類恒久の平和を祈る御証悟安らかんことを。
碑 文
昭和12年7月勃発した支那事変は遂に大東亜戦争に発展し、戦域は遠く東南アジアを蔽い、沖縄は死命を制する要衝として一大決戦場となったが、昭和20年8月戦いは史上最大の犠牲を払って終末を告げた。
その間、本県出身の将兵、文民の逝いて帰らざるものまた数を知らない。顧みれば、諸霊は遠く祖国を離れ、北漠に北斗を仰ぎ、南溟は十字の星陰のもと、東は太平洋の海原の崖、西は印度洋の波打つ限りの諸地域において、陸海空の苛烈なる死闘に、はたまた言語に絶する気象風土等の悪条件下、非運にも異郷に没して、再び家郷に帰らず、祖国のため、貴い犠牲となられたのである。爾来この犠牲を礎として、世界恒久平和樹立の願い澎湃として高まり、ここに終戦後18年を迎えるに当り、200万県民は諸霊の崇高なる死に対して報謝以って慰霊の誠を捧げるとともに天地永遠の平和を祈念するべく、長野県、同議会を始め各種団体の協賛により、厳かに信濃の塔を最終激戦地として記念すべき沖縄島摩文仁の聖地に建てる。
諸霊よ、遥かなる信濃の故山清流より選ばれた銘石に想いを寄せられ、ここ摩文仁の景勝において、波の楽音に守られながら共にふるさとを語り合われんことを希う。心をしずめ、はるかなる彼方を望み、なつかしくもまた哀しき諸霊の冥福を祈る。
建立の経緯
太平洋戦争において、沖縄をはじめ南方諸地域で戦没された3万5千余柱の「みたま」を祭るため、昭和40年10月15日長崎県戦没者沖縄慰霊塔建設委員会が結成され、ここゆかりの地摩文仁ヶ丘を選び、御遺族から寄せられた霊石を礎とし、慰霊碑は郷土の名石蛇紋石をもって建立された。
慰霊塔は、本道から約40m奥のアワ石コンクリートを敷きつめた一段高まったところに配置され、参道はガジュマルやソテツなど現地の樹花でおおわれ、碑は現地産の礎石のうえに幅2.6m、厚さ1.2m、重さ6トンの蛇紋石をおき、碑の下には3万5千余柱の霊石を埋め、蛇紋石は本土の方向にやや斜め上向きの角度をもたせ、故郷への思慕の上を表現した。
碑文石の追悼のことば
すぎし日の大戦により、中国大陸および沖縄以南の各戦線において、長崎県出身3万5千余名の方々がゆたかな春秋を残して散華された。祖国日本の繁栄を念じつつ困難に殉ぜられた崇高な愛国のまことを思うとき、敬慕の情おさえ難いものがある。170万県民は子々孫々に至まで、あげて崇敬の慰霊のまことを捧げ、ご遺徳を偲ぶよすがとすべく、大戦最後の激戦地、ここゆかりの地を選び、ご遺族から寄せられた霊石を礎とし、郷土の名石をもって碑を建立する。
慰霊塔・碑のデザインの由来等
(1) 当事、海外に慰霊碑の建立は望むべくもなく、南方諸地域の戦没者に想いを込めるため、又、沖縄を訪問した県人から本県のものがないのは淋しいと言う話もあり、旧軍人関係諸団体から建立の機運が高まり、昭和39年12月「徳島県人沖縄戦没者慰霊塔建設奉賛会」を設置。総裁に知事、会長に副知事を選任した。
(2) 建立場所を沖縄本島最南端で日本軍最後の激戦地である摩文仁の丘に決定。
(3) 地鎮祭と敷地整備は、公募した青年奉仕隊17名の奉仕により実施した。
(4) 塔名を「徳島の塔」と決定、霊域の入り口に歌碑を設置。
碑 文(公募により、81首の中から選定)
那賀郡羽ノ浦町 徳永好吉氏 作
「たたかひに散りたる御魂やすかれと
ふるさと阿波の青石を立つ」
塔のデザイン
徳島県名西郡神山町産出の青石(約8トン)を使用し、知事の直筆で「徳島の塔」と刻まれ、塔の周囲は県下各市町村名の入った飾り石で囲んでいる。
建立経緯
祖国日本防衛のため、沖縄戦の苛烈を極めた戦闘において犠牲となられた福岡県出身戦没者に、県民の感謝と追悼のまごころを結集し、建設にあたっては、用地(児島氏)・庭石(粕屋郡志免町)・県章の梅花石(西日本新聞社民生事業団梅花石顕章会)・ツツジ(西日本植木農業協同組合)・国旗掲揚塔(沖縄福岡県人会)などの寄付をしていただくとともに、沖縄県遺族連合会・沖縄県戦没者慰霊奉賛会の協力を得て建立された。
慰霊の塔改修・整備について
沖縄戦線における戦没者の御霊に追悼の誠を捧げるとともに、悲惨な戦争体験も年々風化しつつあると言われている今日、再び戦争の惨禍を繰り返すことのないよう、平和の尊さを次の世代に引き継ぐため、終戦50周年(平成7年度)事業の一環として改修・整備を行う。
碑 文
第62師団は昭和18年6月、中国北部の太原で結成されたが、昭和19年8月首里北方戦線に配備された。昭和20年5月下旬、第32軍司令部が摩文仁へ後退したのに伴い、同師団も旧三和村の山城福地地区に移動したが、6月18日までの戦闘で師団はほとんど全滅し、6月22日には師団長の藤岡武雄中将もこの地で自決した。昭和39年、藤岡夫人から沖縄県戦没者慰霊奉賛会(現在の沖縄県平和祈念財団)に贈られた7万2000円をもとに慰霊碑が建立された。
慰霊塔・碑のデザインの由来
慰霊塔建立期成会常任理事会において、名称を「岩手の塔」と決め、県民性を表す「岩のようにどっしりした」県内産の自然石を使うこととなった。形状は、岩手県の地形を意図したものである。
碑 文
大東亜戦争に際し祖国に殉じられたる郷土出身三万四千八百有余柱のみ霊よ。われら今日あるは諸霊に負うところ多し
諸霊の愛国の至情を後世に伝えみ霊を慰むるはわれらが責務なりされば本土防衛最後の戦場となりしここ摩文仁ヶ丘にわれら県民の平和への願いと慰霊の誠をこめて塔を建立す希くはとこしえにこの霊地に鎮まり給わらんことを
建立の経緯
慰霊塔のデザインについては、三重県戦没者沖縄慰霊塔建立委員会により土色豊かな塔を建立。
塔碑文
鳴呼国破れて山河あり人は逝いてその名をのこす。すぐる第二次世界大戦においてここ本土内激戦終焉の地沖縄に祖国の発展を祈りつゝ草むす屍と化せられし勇士は申すに及ばず広く異国の山野にまた南海の孤島に玉の緒絶え給いし本県出身戦没者五万有余の勇士は三重の男の子の誇りを胸に秘めて祖国日本の守り神世界平和の礎となり給うその高く尊き勲は鈴鹿の山の嶺より高く五十鈴の川の流れ尽きざる如く末永く称えられん。
この諸霊を祀らんと沖縄戦没者友の会の提唱により県に三重県戦没者沖縄慰霊塔建立委員会を設置し広く県民の浄財を集め市町村はじめ各種団体等の協力のもと一五〇万県民の尽きぬ平和への祈りを郷土の山の仙石に刻みてゆかりの地摩文の丘にこの碑を建立す。
ここに謹みて慰霊のまことを永く後世に伝うると共に沖縄と三重県との親善友好に寄与することを願う。
慰霊塔のデザインの由来等
手を合わせた姿:合掌を表している。合掌は、人が祈るときの、もっとも敬虔な姿であり、
第一に ご英霊の冥福を祈り
第二に 遺芳がいつまでも語り伝えられることを祈り
第三に ご遺族の幸福を祈り
第四に 沖縄との一体化を祈り
第五に 世界の平和を祈る
という願いが込められている。