黎明の塔に向かう道の入り口です。ここからが本当の意味で、第二次世界大戦末期の日本本土を死守するための防波堤として、同じ日本国民なのに見捨てられた沖縄の人々の無念さや悲しみ苦しみ、戦争への怒り、そして平和への希求を感じることができるでしょう。
ここから見えるところ、ずーっと上り道のようです。さあ、頑張って上りましょう。
黎明の塔への道の半ばです。未知の左には沖縄の海が広がっています。よく見ると木には「ハブに注意」の黄色い看板がありました。やはり、沖縄です。どこにいてもやはり、気は抜けません。
黎明の塔への道をだいぶ上ってきました。黎明の塔も、もうすぐです。道の途中にある展望台で一休みです。上の左右の写真は展望台からの眺めと展望台の内部の写真です。沖縄の建物と同じように、台風対策のためか頑丈な作りです。
左上の写真の展望台からの眺めは絶景ですね。青い海と青い空、そして白い雲と緑の沖縄の緑植物の息吹と単純な構図ですが、いつまでも見ていられます。
勇魂の碑は、先の展望台から少し上ったところにあります。
左上の写真の右下の黒い石にはこのように刻まれています。「勇魂の碑 沖縄戦における第三十二司令部将兵軍属の慰霊のために建立した。 昭和42年6月 軍司令部遺族戦友会」と。
そして、奥に屏風のように建てられた石には、「第32司令部戦没者名碑」と刻まれています。写真を拡大すると、日本の各地から集められた人々がこの地で命を失ったことが分かります。
右上の写真にはこのように刻まれています。「牛島軍司令官、長参謀長 両将軍の墓跡」と。
とうとう黎明の塔に到着しました。
黎明の塔は沖縄県と南西諸島の守備を命じれた第32軍司令官の牛島満大将と参謀長の長勇中将を祀っています。
最初、木柱の墓標(おそらく部下が埋葬し、建てたと思われる。)の後、沖縄米軍基地建設のため多く労働者が、日本本土から来島し、その中には多くの元部下も多く、沖縄の関係者、沖縄仏教会の協力により、中央に三角のコンクリート柱に「黎明の塔」と刻まれて建立されました。現在の黎明の塔は、元総理大臣吉田茂の名が刻まれ、昭和37年10月南方同法援護会の助成により改修されたものです。
しずたまの碑 碑文
太陽戦争で沖縄は祖国防衛の決戦場となり、その戦闘は熾烈(しれつ)を極めた。一家族全員が戦禍でなくなった家は約380所帯、犠牲者は1500人余りに及んでいます。
沖縄県遺族連合会ではこれらの御霊の慰霊顕彰(けんしょう)に深く心を砕いてきたが、昭和44年(財)沖縄協会の寄進を得て、沖縄市のくろしお会館内に建立したのが、しずたま(鎮魂)の碑である。その後、同地域が都市計画によって整理されることになったため、昭和63年に現在地に移設された。