第一日 羽田から沖縄市街へ

人生3回目の羽田空港 「空港ビルから飛行機を眺める」

 今回は、2006年の8月に沖縄に行くため、人生3回目の飛行機を使っての旅行です。羽田空港までの交通機関としては、群馬から空港直行の高速バスを使いました。具体的には、「JR前橋駅南口」バス停発、羽田空港行の高速リムジンバス(日本中央バス)を予約しました。

 旅行当日の8/12、余裕をもって自宅から歩いて、午前7時半ころJR前橋南口に到着しました。(2020年2月現在、運賃3400円から3700円です)。そして出発時間の午前8時5分前に、バスに乗車し、そして定刻にバスは出発しました。高速リムジンバスは高崎インターから関越自動車道に入り、羽田空港には午前11時半頃到着しました。

 上の写真は、空港到着後に空港ビルで簡単に昼食を食べ、午前12時半ころ空港ビルから撮った写真です。

羽田空港での写真

空港ビルで飛行機の発着を眺めながら、ふと思いました。

 飛行機での旅の利用者は目覚ましく伸びています。人の動きについて1980年と2003年での比較では、2.81倍です。もちろん、高度成長期、バブル、バブル崩壊の日本経済の好ましい変化に基づくものですので、ほかの乗り物でも数字は伸びています。ちなみに、バス等は2.21倍、鉄道は1.22倍です。ただ船だけが、最近の高速道路事情の改善で、0.66倍と大幅に減少しています。

 また、物の流れでは、飛行機は3.54倍、自動車は1.8倍、船は0.98倍、鉄道0.61倍です。

 

 日本人は「もはや戦後ではない」と昔の人のことば、おそらく政治家のことばがありますが、戦後の焼け野原の中で、その日その日の食べることに必死で、生きるために生きていた時代を覚えている人も今はいないでしょう。現在は、楽しむため、知的好奇心の探求、すなわち自己実現欲求を満たすために生きているのではと思います。

 

 日本人が豊かなお金持ちになった証拠に、一人当たりのお金のかかる飛行機による海外旅行利用人数は1970年と2003年の比較では9.54倍です。多くの豊かな日本人が海外に旅行に行く時代になりました。

 これらの数字の情報は、PHP出版著書を参照させていただきました。

エプロンにある搭乗予定の飛行機「JAL」を眺める

ターミナル・ビル屋上からみた飛行機
ターミナル・ビル屋上からみた飛行機

 空港ターミナル・ビルの屋上から眺める「JAL」の文字、あの飛行機に乗るのだと思いながら眺めていました。(午前12時26分)

 飛行機が止まる場所を「エプロン」(駐機場)と呼びます。

 その意味は、料理をするときに服が汚れるのを防ぐために、エプロン(前掛け)をするのと同じように、滑走路から見るとエプロン(前掛け)のように見えるからだそうです。滑走路に着陸して空港のエプロンに駐機した航空機は、人と荷物を降ろし、整備、点検、給油、機内清掃を行い。次の出発に備え、新たな食料、人と荷物を載せます。

 上の写真は、羽田空港

羽田空港とその誕生

 日本の飛行場は法律で第一種から第三種までに分類されています。第一種空港は、国際航空路線に必要な飛行場。第二種空港は、主要な国内航空路線に必要な飛行場。第三種空港は、国内のローカル線の国内路線に必要な飛行場です。

 羽田空港は第一種空港です。羽田空港は1931年に開港しました。ちなみに、羽田空港工事には苦労話があります。それは羽田空港が「ヘドロの海にできた空港」というのはあまり知られていない話かもしれません。羽田空港を東京湾の沖合に整備する工事は柔らかくて弱い地盤との戦いでした。東京湾沖合は「お汁粉層」とも呼ばれるヘドロの海でした。そのため、整備工事の初期工事として、「泥水」を抜き、「地盤改良工事」で土を固くします。それは当時最新工法とされていた工法でした。具体的には、直径50センチメートル、長さ30メートルのサンド・ドレーンと呼ばれる「砂の柱」を10万本以上、「お汁粉層」に打ち込みました。

 その結果、地盤は空港整備に必要なほど固まり、数百トンの飛行機の着陸の衝撃に耐えうる滑走路、ターミナル・ビル、高速道路用トンネルも造られました。

搭乗手続き、見送りをするターミナル・ビル

 羽根田空港には、第一ターミナル・ビルと第二ターミナル・ビル、そして国際線旅客ターミナルがあります。

 第一ターミナル・ビルは、1993年に整備され、地上5階(一部6階)、地下一階建てです。1階が到着ロビーです。地下一階にモノレールと京急線の駅があります。ビルの中心部には、2階から6階までの高い吹き抜き空間があります。その空間を取り囲むようにレストラン、売店、1階には銀行と郵便局があります。

 第一ターミナル・ビルの愛称は、「ビッグバード」です。これは1993年にターミナル・ビルが誕生した時につけられました。それはターミナル・ビルを上空から眺めると、大きな鳥が翼をいっぱいに広げた様子に見えるからと言われています。第二ターミナル・ビルも、同じく「ビッグバード」と呼ばれています。

 第二ターミナル・ビルとは、C滑走路に並行して整備され、2004年12月から使われています。床面積は第一ターミナル・ビルより小さいですが、明るい光がそそぎと開放感があるターミナル・ビルです。構造はほぼ同じです。特徴は、ガラス張りの中央ドームの内部は吹き抜けとなっていて、ドームを取り巻くようにレストランなと様々な店があります。地下1階は第一ターミナル・ビルと同じように、モノレールと京急線の駅があります。 

飛行機に搭乗する手続き

  1. 航空会社のチェック・イン・カウンターでの搭乗手続き。大きな荷物はここで「安全検査」の後に預けます。荷物はエックス線を通され、「番号札」をつけられ、乗客には「引換券」が渡されます。
  2. 保安検査場で、手荷物検査を受けます。飛行機に搭乗前に、保安検査場ではハイジャックや事故を防ぐため、エックス線の荷物検査とバッグの中身検査、またボディ・チェックを受けることもあります。ここから先は飛行機の搭乗券がないと進めません。
  3. 搭乗口に行きます。手荷物検査が終われば搭乗口(出発ゲート)に進みます。搭乗口番号により、そのまま飛行機に乗れる場合と、搭乗口からバスで飛行機まで移動する場合があります。注意点は、搭乗口へは出発時間の10分前までに到着しましょう。遅れると飛行機の出発時間が遅延し、多くの人々にご迷惑をおかけすることになります。
  4. 飛行機に搭乗する。航空会社から案内があれば飛行機に乗ります。それまでは、搭乗口にある出発待合室で待ちます。

搭乗後、少し緊張気味に飛行機の窓からの眺め

羽田空港で飛行機を助ける仲間たち

 出発前の飛行機や着陸後の飛行機が駐機する「エプロン」では、飛行機を助ける仲間たちが元気に働いています。彼らの働きがあって初めて、飛行機が元気に働けるのですね。

 エプロンでは、着陸した飛行機を、エプロンの停止線に導くスタッフの「マーシャラー」、燃料の給油、機内の掃除、荷物や飲食物の積み込みなどの飛行機の運航を助けるために多くのスタッフと専用の機械たちが働いています。

図体の大きな飛行機をエプロンで微調整する「トーイングカー」

そして、荷物積み込みを助ける「ハイリフトローダ」

トーイングカー ハイリフトローダ 羽田空港のエプロンで活躍
トーイングカー ハイリフトローダ 羽田空港のエプロンで活躍

 エプロンに飛行機が駐機しています。手前の「JAL」の飛行機がありますが、その鼻先に車が飛行機を先導するように見えています。その車は「トーイングカー」と呼ばれています。その働きは、飛行機をエプロンで飛行機を押したり引っ張ったりして微調整する仕事をしています。

 その左隣、写真左下にある車は、「ハイリフトローダー」と呼ばれ、荷物室に荷物を積み込む自動車です。飛行機の搬入口は機体の真横にあるため、高さがありますが、荷台が高く持ち上がり、搬入を助けます。

荷物を運ぶ「小型トーイングトラクター」

荷物を積み込みを助ける「ベルトローダー」

小型トーイングトラクター ベルトローダー 羽田空港のエプロンで活躍
小型トーイングトラクター ベルトローダー 羽田空港のエプロンで活躍

 写真の一番手前の亀の甲羅に似た小さな台車をつないだ車は、「小型トーイングトラクター」と呼ばれ、荷物が入ったコンテナを飛行機まで運ぶ仕事をしています。

 「小型トーイングトラクター」の最後尾に「ベルトローダー」が写真左下の隅に映り込んでいます。ベルトコンベアが付いた自動車で、旅客の荷物を飛行機に積み込みます。

 

羽田空港の歴史

  • 1931年、羽田に新飛行場が完成「東京飛行場」として開港。飛行場面積約53万平方メートル、滑走路は長さ300メートルの一本を整備。
  • 1939年、飛行場拡張、面積約73万平方メートル。800メートルの滑走路二本を十字型に交差させた滑走路整備。
  • 1945年、第二次世界大戦の敗戦で、飛行場はアメリカ軍に接収され、名称も「羽田陸軍航空基地」と変更された。その後、アメリカ軍により飛行場を拡張する工事を開始する。
  • 1946年、アメリカ軍の拡張工事が終わり、2100メートルのA滑走路、1650メートルのB滑走路を備えた、総面積257万平方メートルの空港に整備された。
  • 1952年、アメリカ軍から飛行場の大部分が日本に返還され、日本の民間航空が再開される。空港の名称も「東京国際空港」と改められた。しかし、一般には「羽田空港」と呼ばれて現在に至ります。
  • 1955年、A滑走路を2550メートルに延長。また、当時、東洋一の規模を誇る羽田空港ターミナルビルがオープン。
  • 1960年、羽田空港の年間乗客数が国内線100万人、国際線10万人をこえる。
  • 1961年、ジェット旅客機に対応できるように、A滑走路を3000メートルに延長。
  • 1962年、国産旅客機YS-11機が初飛行。その機の国内線就航は1965年から。
  • 1964年、日本人の海外渡航自由化へ
  • 3150メールのC滑走路を整備。国内線到着専用ターミナル・ビルが使用開始となり、首都高速道路羽田線や浜松町から羽根田空港間のモノレールが開通。都心からの便が良くなる。また東京オリンピック大会開催し、聖火リレーにYS-11機が使用される。
  • アメリカのジャンボジェット、ボーイング(以下、Bと略)747が羽田空港に初飛来。
  • 1970年新国際線到着ターミナル・ビルが完成。国内、国際線、出発、到着ビルあわせてビルの総面積は5倍以上の広さになる。JALがB747機を就航させる。
  • 1971年、B滑走路を2500メートルに延長。羽田空港の年間乗降客数1100万人、年間離着陸回数17万回。
  • 1978年、新東京国際空港(成田空港)開港。
  • 1984年、羽田沖合への拡張工事開始。
  • 1988年、新A滑走路3000メートルが完成。
  • 1990年、年間乗降客数4000万人を超える。
  • 1993年、第一ターミナル・ビル完成。関西国際空港開港。
  • 1995年、第一ターミナル・ビルの利用の乗降客数が延べ1億人超える。
  • 1997年、新C滑走路3000メートル完成
  • 1998年、年間国内線乗降客数が5000メートルを超える。京急空港線の羽田空港駅が開業。
  • 2000年、新B滑走路2500メートルができ使用開始。
  • 2001年、国際旅客チャーター便が運航開始。
  • 2002年、年間国内線乗降客数が6000万人をこえ、年間離着陸回数は28万回となる。
  • 2003年、年間離着陸回数は30万回となる。
  • 2004年、第二ターミナル・ビル完成。年間離着陸回数は6229万回となる。
  • 2005年、中部国際空港開港。

羽田 話のタネ

 羽田 話のタネ1 「羽田発一番機の乗客は?」

 「東京飛行場」と呼ばれていた羽田空港から飛び立った一番機は、1931年8月25日、6人乗りで、行く先は中国の大連でした。操縦士と機関士の乗務員のほかは、6000匹のマツムシ・スズムシだけが乗客でした。台連の人々に「秋の声」を届けるためだったそうです。

 羽田 話のタネ2 「羽田の初代空港長」

 1952年、アメリカ軍から返還された東京飛行場は、空港名も「東京国際空港」と改めました。初代空港長に就任したのはね民間パイロットの中尾純利(なかお すみとし)さんです。彼は1939年に世界一生飛行に成功した「ニッポン」号の機長です。50日間、20か国を訪問飛行しながら、52860キロメートルを飛行時間194時間で飛んで帰国したのでした。

 

 地方空港 話のタネ1 「小さな島のコミューター便」

 沖縄県の波照間島は、人が住む島では、日本最南端です。人口わずか600人のこの小島に、滑走路800メートルの波照間空港があります。そこへ石垣島から、9人乗りの飛行機が毎日往復しています。(2006年現在) 

 地方空港 話のタネ2 「旅客がないな空港」

 沖縄県下地島にある下地空港には、3000メートルの滑走路がありますが、定期便やチャーター便が発着することはありません。パイロットの訓練だけに使われる空港です。(2006年現在)

 地方空港 話のタネ3 「ただいま休業中」

 日本最北端の国立公園がある礼文島は、たくさんの観光客が訪れる「花の島」として有名です。しかし、海が荒れると北海道との連絡手段がなくなります。そこで1978年に礼文空港が開港されましたが、2006年現在、2003年4月から定期便が運休しています。(2006年現在)

沖縄の縄市街、レンタカーの車内より撮影

 8月12日、盆時期の沖縄那覇、午後5時23分の様子です。結構混んでいますが、写真は那覇空港から歩いて行ける距離のレンタカー屋さんで借りた車の車内から写したものです。残念ながら、この写真から感じる沖縄感はゼロですね。

 この後、沖縄滞在中はずーっとお世話になる那覇市内のホテルに向かいました。ホテルはコスト優先で選んだため、お部屋は小さなシングルです。