沖縄戦において、戦闘員、非戦闘員含め、約18万人の今日で尊い命が失われました。
上記の写真の「沖縄戦戦没者墓苑」には沖縄戦で失われた人々の遺骨が納められています。
その経緯について以下に記します。
戦没者の沖縄戦の遺骨収集は、戦後早くから地域住民の自発的活動により始められ、後に各地の納骨堂や慰霊塔(納骨堂を兼ねた)が建設されます。
1957年には、日本政府がアメリカ統治下の琉球政府に委託して、那覇市識名に戦没者中央納骨研究所が建設され、納骨されましたが、納骨数の増加とともに中央納骨所では納めきれなくなりました。
そのため、国難にいのちをささげられた戦没者の遺骨を永久に収めるにふさわしい墓苑を、新たに作るべきとの声が沖縄県民をはじめ、関係遺族等から寄せられ厚生省(現 厚生労働省)の配慮から、昭和54年に沖縄戦戦没者墓苑が建設され、中央納骨所から遺骨が転骨されました。
その後も、毎年100人前後の遺骨が新たに収集納骨され、昭和60年には後方に納骨堂が増設されました。そして現在は3連の納骨堂となり、戦没者の18万余りが納骨されています。
沖縄戦戦没者墓苑は上の写真のように、正面の参拝所の屋根は沖縄の伝統的な琉球赤レンガを使い、紋は桜の花です。また、納骨堂には沖縄産の石灰岩(トラバーチン)1000個が琉球王家の墓を模した古来の積み上げ法を用いています。納骨堂はコの字型となっていて、祖国の平和の礎となられた戦没者を温かく抱擁していることを意味しています。安置されている石棺は福島県産の黒御影石で作られ、台座は万世御影石製です。
建立の経緯
沖縄をはじめ、南方地域の戦場で亡くなられた富山県戦没者の御霊を慰めるために、昭和40年11月に建立された。
塔のデザイン等
塔の高さは、10メートル、先のとがった五角形の斜塔になっており、そのデザインは、故郷と肉親を偲んで南海に戦死した将兵の悲しみを表している。
斜塔の名称は、広く県民から募集して名付けられたもので、「立山」の言葉に県民の強靱、不屈の精神と御霊の悲痛な心情を表現し、全県民の哀悼と平和希求の一念が込められている。
なお、塔前面には、常願寺川の油石と、県産の万成石がはめ込まれ、他の資材もすべて郷土産の石材が使用されている。
慰霊塔・碑のデザインの由来
沖縄「静岡の答」は、今次大戦において沖縄を始め、南方諸地域において戦没した本県出身者四万余名の霊を慰めるために、県、市町村ならびに各方面からの寄付金などにより、昭和四十一年四月三十日、沖縄本島摩文仁の丘に建立された。
沖縄慰霊塔の建立について、当初県は昭和三十七年四月九日付総持連第四〇三号、同年厚生省援護局主催全国主管課長会議の趣旨に則り、県民生部長連絡会議において「沖縄慰霊塔の建立は当分見合わせ、沖縄護国神社の復元費(分担金)に協力する」との方針を決定しており、この方針により沖縄慰婁塔の建立は諸情勢を判断していくこととされた。
その後、同三十九年春から経済各種団体、遺族会等が現地視察を行った結果、慰霊塔の建立について最早放置しておけない状況であるとして、県に申入れがなされた。
その一方、県内各団体において、それぞれ独自に建立計画を行う動きが現れ、静岡県防衛協会常任理事会では、慰霊塔の建立に関する審議が行われ、その結果、沖縄慰霊塔建立期成同盟準備会が結成され、準備会委員一行が沖縄に渡航し、敷地の内定、買収手続の依頼等の準備が進められていった。
こうした状況の中、県としても各団体の計画をとりまとめるとともに広く県民の要望に応えられるよう、慰霊塔建立の機が熟してきたとして、慰霊塔の建立について乗り出すことに決定し、昭和四十年三月の県議会質問第一日総括質問において、斉藤寿夫知事が建立意思を表明するとともに、既成の各県の慰霊塔建立状況等についての調査を実施した。
その結果、慰霊塔建立のためには各界代表からなる「委員会」または「奉賛会」を結成し、県民の総意により建立することが適当であるとの結論に達し、県防衛協会等の関係各方面と十分協議の上、当該事業を実施する団体の設立が計画された。
この実施団体の設立に当たっては、先に県防衛協会において結成をみていた沖縄慰霊塔建立期成同盟準備会の方針等を参考とし、昭和四十年四月九日県庁貴賓室において設立発起人会を開催し、知事をはじめ平野東太郎、松井健治、宮崎作次の各氏ならびに県遺族会長、県市長会長、県町村会長等出席のもとに、奉賛会設立の協議を行い、同年四月三十日「静岡県戦没者沖縄慰霊塔建立奉賛会」(名誉会長 静岡県知事・斉藤寿夫、会長 静岡県商工会議所連合会長 平野繁太郎)が発足し、静岡市産業会館において発会式が盛大に開催された。
沖縄慰霊塔の建立に当たっては、この奉賛会が中心となり、県下全域にわたって広く募金運動を展開し、三〇〇万県民の協賛のもと、官民一体となった熱意と努力、そして沖縄現地政府をはじめ関係各団体の協力の中、昭和四十一年四月三十日沖縄県糸満市摩文仁の丘に沖縄「静岡の塔」はその完成をみるにいった。
建立の経緯
大東亜戦争における沖縄での戦いは、当時・日本軍と全沖縄県民が一体となってあたり、その激戦の様相は、非常に凄絶なものがあった。この戦場となった現地に沖縄と南方諸地域等で戦死された群馬県出身の戦没者を慰霊し、併せて世界平和を祈念するため、「群馬の塔」が建立された。
塔のデザインに関して
「群馬の塔」の素材は、すべて郷土産の銘石とし、中央主柱石には三波石を郷土に向かって合わせ、祈りをこめた合掌型となっている。
台石の表面には、沖縄戦没者の故陸軍中佐・町田一朗命他849柱の遺族から送られた戦没者にとってゆかりの深い個々の霊石を配置してあります。前石には浅間石を、碑文石には赤城山小松と、勢多・沢入みかげが使用されています。又、「群馬の塔」の揮毫は当時の神田知事が謹書し、碑文については飯塚会長(当時の県議会ぎ議長)の謹書によるものです。
建立の経緯
「神奈川の塔」は、南方諸地域で戦没された本県関係40,680名の戦没者を追悼し、平和を祈念するため終戦20周年にあたる昭和40年11月26日に、本土唯一の激戦地沖縄本島摩文仁の丘に建立された。
建立にむけて、「神奈川県南方諸地域戦没者慰霊碑建設委員会」が設置され、県民400万人から寄せられた募金は、700余万円に達した。
異郷の地に眠る御霊よ安らかにとの願いをこめ、慰霊碑には県内産出の銘石が用いられた。
塔の完成を記念する除幕追悼式には、遺族をはじめ総勢700名余が参列のうえ盛大に挙行され、以来この日を記念して、毎年11月26日に追悼式が行われている。
建立の経緯
大東亜戦争中南諸地域において、戦没した本県出身者は3万8千余名に達しているが、本会では、これらの戦没英霊を慰める趣旨から、日本国土で唯一の戦場となり、かつ、日本最南端に位置する沖縄県糸満市の摩文仁の丘に敷地を購入し、遺族をはじめ200万県民がこれら戦没者の慰霊と平和への祈りをこめて、昭和39年11月22日ここに「茨城の塔」を建立した。
塔のデザインに関して
この塔の敷地は、1,324平方メートルで庭園式になっており、塔は3.72平方メートル、高さ30.3センチメートルの台の上に、2.7平方メートル、高さ60.6センチメートルの塔石をのせ、さらに、その上に平和の象徴する直径1.3メートルの球が置かれている。塔は、すべて郷土産の稲田のみかげ石が使われ、台石・塔身・球ともすべて本磨きである。
塔身の中はくりぬかれて、その中に45センチメートル立方の銅板製の二つの箱に、沖縄をはじめ南方諸地域で戦没された3万8千余柱の英霊の名簿や多くの遺品および遺族・県民から寄せられた香華料の名入れの封筒が密封されておさめられている。
「茨城の塔」の文字は、岩上二郎知事(当時)が謹書された。
碑 文
この塔は太平洋戦争において本土防衛の防波堤となって沖縄の戦をはじめ 遠く南方戦線に死闘を重ね異郷にその尊い生命を国家の栄光の前に捧げた 茨城県出身戦没者三万八千余柱の勇魂をこの地に招き 二百万県民が平和の祈りをこめて建立したものである諸霊の愛国の至情は仰いで範とすべく 耿々として後進を鼓舞することを信ずる
冀くは雄魂 永くこの霊地に鎮まり 国家永遠の隆昌と
遺族の繁栄に加護を垂れ給え
建立の経緯
兵庫県出身の戦没者3,073柱の御霊を慰霊するため、昭和38年12月7日「兵庫県戦没者沖縄慰霊塔建立委員会」が設立され、広く県民から浄財を得て、昭和39年6月13日に沖縄戦最終の地、摩文仁の丘に慰霊塔を建立した。塔名も公募によって「のじぎくの塔」と命名された。(参考)「のじぎく」は兵庫県花として指定されている。
塔のデザインに関して
一般的な「塔」のイメージとは趣を異にし、塔基壇の中央にある主碑の「みたま石」(球状)は戦没者を、それをはさむ2枚の石板「合掌石」は、それぞれ遺族と県民の暖かい手を象徴するとともに、後背の壁は自然の厳しさから「みたま石」を永遠に守り続けることを意味している。背後壁には戦没者3,073名の氏名が刻み込まれている。
弔歌の作者
のじぎくの塔左前にある弔歌の「しろしろと しおじはるかに……」の作詞は、坂井時忠氏によるもので、昭和45年から昭和61年まで、4期16年にわたり兵庫県知事を務められた。
設立の経緯
沖縄戦或いはその近海における十数万人にものぼる多数の戦没者に対し慰霊の誠を捧下、また、戦争の空しさ、悲惨さを次代に伝え、世界恒久平和の実現に向かい、たゆまぬ努力を誓うことを顕彰氏、滋賀県及び市町村からの補助金を受け建立、滋賀県近江の塔維持管理会が管理。
塔のデザインに関して
塔壇部分を高く、重厚な味わいを持たせ、風格ある慰霊の空間を与えると同時に、前面左右に配された灯篭とのバランスを取り、リズムある構成とする。背面の霊名碑は、「近江の塔」と調和する形を取る。
塔体は上昇のイメージをより強める台座の意匠と相まって敬虔な祈りをシンボリックに表現する。
碑 文から
沖縄ならびに南方全地域において大東亜戦争の大義に殉じた福井県出身者2万4507柱の英霊をこの聖地に奉祀しそのとこしえの冥福を祈る。
ここに全県民の赤誠をこめてこれを建立する。南溟にたとひこの身は果つるとも、いくとせのちの春をおもへば
遺詠 永嶺 肇
碑 文
沖縄戦でなくなった逓信職員(現在の郵政事業、NTT、KDDIなど電気通信関係職員)505人の御霊を祀っている。塔は日本本土と沖縄の逓信関係者から寄せられた資金をもとに建設され、昭和40年6月23日に除幕式と慰霊祭が行われ、その後毎年6月23日に慰霊祭を行っている。
建立の経過 (碑文から)
過ぐる太平洋戦争最終の激戦場ここ沖縄の地に県人2076名が壮烈な戦死をとげられた。この遺烈をたたえ冥福を祈って郷党相はかり、はるかに故山の石を運び慰霊の塔を建てる。
建立の経緯
先の大戦において、沖縄、中国及び南方諸地域で亡くなられた千葉県出身戦没者を慰霊するため建立したものである。
慰霊塔・碑のデザインの由来
塔 : 合掌し、現世の平和と子孫の繁栄を祈る姿を象徴し
ている。
玉魂 : (塔中央)魂の拠り所として、建立当初は戦没者等
の遺品(陶器)をちりばめていたが、平成5年9月の
台風により 破損したため、同年12月3日に、県花であ
る「菜の花」と千葉県を波の形であしらった現在の
玉魂に改修した。
(旧玉魂は塔の後方に埋納)
塔の名称 「房総之塔」 公募により決定
慰霊塔・碑のデザインの由来等
沖縄に建立されている『岡山の塔』は、多くの県民並びに遺族の要望により、昭和40年3月17日「岡山県戦没者慰霊塔建設委員会」が発足され、県民の浄財6,193,306円で建設工事が行われ、同年10月21日に『岡山の塔』として完成。その後は、毎年、沖縄地域戦没者慰霊巡拝団を編成し、現地において追悼式を執り行っている。
この塔には、建設当初は岡山県出身の沖縄地域戦没者1,578柱が、昭和47年に南方諸地域戦没者32,221柱が合祀され、合計33,799柱のみたまの慰霊碑となっている。
碑 文
本県南方戦没者1万9847人の慰霊のため、遥か郷土の秀峰岩木山の原石を船で運び、6地区遥拝のために副碑を配置して、昭和39年11月、県民の誠心を込めて「みちのくの塔」が建立された。以来、数回の補修工事や環境の整備を行い、碑前においては、毎年県人多数の参加の下、盛大に慰霊祭を挙行し今日に至る。時移り人変わりて、今後詣でる人々のために歴史的事業である「塔の由来」を碑文に残す重要性を思い、ここに青森県遺族連合会創立50周年記念事業として、木村知事謹作の和歌を献じ「みちのくの塔の由来」の碑を建立する。